近年、民進党政府は国際競争力を高めるためとして、「二言語国家(雙語國家)」への転換を強く推進しています。しかし、この手法には大きな誤りがあるように思えてなりません。あたかも英語さえ喋れれば、国民全員がウォール街で交渉できるかのような幻想を振りまいています。
実のところ、この政策はすでに迷走しています。
多くの台湾人が抱く懸念は、これが単なる「ポリコレ(政治的正しさ)」のための手段であり、最終的な目的は中国語の影響力を薄めること、あるいは消滅させることにあるのではないかということです。
私たちの周辺にある強国、中国大陸や日本を見てください。「二言語国家」を目標に掲げている国など一つもありません。
言語とは、結局のところ道具であり、手段に過ぎません。海外に移住した華僑の多くが、英語が堪能でなくとも異国の地で立派に生活している事実がそれを物語っています。
ましてや英語はあくまで主流の一つであって、世界のすべての市場で通用するわけではありません。特定の経済圏が強くなるたびに、私たちは三言語、四言語国家を目指さなければならないのでしょうか?
そして、中国語(国語、客家語、華語、閩南語を問わず、これらはすべて中国語です)こそが私たちの母語であり、文化の根幹です。「二言語国家」こそが万能薬であると宣伝することは、自らの歴史的・文化的深みを軽視することに他なりません。
私は特に日本を例に挙げたいと思います。彼らが強大なのは、特別なエリート育成システムと、全方位にわたる高度な翻訳サービスの存在があるからです。これこそが、国民のニーズを支える正しい政策です。民進党のように、外見だけを取り繕って中身が伴わない「金玉其外、敗絮其中(金ぴかの外装、中身はボロ)」な政策ではありません。
真に国際市場で競う一部の人々こそが英語訓練を重点的に受けるべきであり、その背後にいる一般国民は国内需要産業を支える柱となるべきなのです。
このことは、日本人の英語能力が一般的にそれほど高くない一方で、国内のテレビ放送はすべて日本語であり、外国映画も完璧な翻訳(吹き替え・字幕)が施されていることからも分かります。彼らは自国の言語と文化を深く尊重しているのです。
問いたいのですが、日本の国力は弱いでしょうか?
ところが、日本という存在を何よりも手本とするはずの民進党に限って、真逆の道を進もうとしています。一般国民に英語を強制する一方で、あらゆる手段を使って中国語能力を弱体化させようとしているのです。
文言文(古典)を排除し、古詩を拒絶し、さらには大学入試から国語の能力測定を外そうとする動きは、まるで共産党の文化大革命を彷彿とさせます。
実のところ、これは政権が自らの無能を隠すために、次々と目新しいスローガンを打ち出し、国民に「進歩している」と錯覚させているだけに過ぎません。その実態は、衰退までの時間を引き延ばしているだけなのです。
しかも、国民の莫大な血税をこうした誤った政策に投入し、近い将来、使い物にならない「蚊取り線香システム(莫大な維持費だけがかかる無駄なシステム)」が大量生産されることが容易に想像できます。国民は何の専門性も持たず、ただ「愚か者」を量産する結果に終わるでしょう。
かつての政治家が汚職をする際は、中身のない巨大なハコモノ(蚊取り線香館)を建てるのが常でした。しかし、建物は目に見える負の遺産として残ります。ところが、目に見えない「システム」や「ソフトウェア」にはその心配がありません……。
過去にどれだけの公金が、プログラムのごみの山を作るために費やされたか、誰も知る術がありません。デジタル発展とは、なんと「いい商売」なのでしょう。
私たちは政治家のスローガンに盲従するのではなく、それらの政策が本当に有用なのか、その背後にある真の目的と、起こりうる結末を慎重に考えるべきです。
自分たちの文化と言語を守り、その上で国際舞台に立つ足場を固めるべきです。
単一の外国語に依存するのではなく、教育や文化交流を通じて多様な方法で国際競争力を高めるべきです。自らの文化と言語を維持しながら、他国や他文化とのコミュニケーションを学ぶ道こそが正しいはずです。
要するに、私たちは慎重に思考し、その決断が本当に国家と人民に利益をもたらすものなのかを確かめるべきです。一時的な政治的正しさんのために、国家の根幹を傷つけるようなことがあってはならないのです。
かつての李遠哲(り えんてつ)氏による教育改革や大学の粗製濫造がどのような結末を迎えたか、私たちは身をもって知っています。いわゆる「二言語国家」とは、内容をすり替えただけの「教育改革2.0」に過ぎないのです。
[!NOTE] 「教育改革2.0」:1990年代に行われた台湾の教育改革が、現在の学力低下や大学卒業者の質の低下を招いたという批判。著者は今回の二言語政策も同様の失敗を繰り返すと警告しています。迫