劉銘伝 – 国宝を手にした淮軍の猛将
劉銘伝の本籍は安徽省合肥で、清の道光16年7月27日(西暦1836年9月7日)、大潜山麓の潘龍墩(現在の肥西県)で生まれました。
幼少期の劉銘伝は数年間の私塾教育しか受けていませんでしたが、読書を通じて古の聖賢たちの事績を知り、壮大な志を抱くようになりました。少年時代の劉銘伝は「大丈夫たるもの、生きては爵位を授かり、死しては諡(おくりな)を賜るべきだ」と自らを期していました。

この銅盤は散氏盤(さんしばん)、毛公鼎(もうこうてい)と共に西周三大青銅器と称される、かけがえのない国宝です。道光年間に、かつての西虢国があった陝西省宝機能県で農民によって掘り出されたものでした。
常州を占領した太平軍はこの屋敷を王府として使用しましたが、教養のなかった王はこの価値を知らず、中が空洞だったため馬桶として餌入れに使っていたのです。
この国宝を手にした劉銘伝は狂喜乱舞しました。西周三大青銅器の筆頭とされるこの国宝は、劉家で4代、86年間にわたって秘蔵されましたが、1950年に国家へ寄贈され、現在は中国国家博物館に収蔵されています。これは、劉銘伝がかつて言った「平和な世の中になれば、宝盤は天下に帰すべきだ」という言葉通りとなりました。
なお、他の二つの国宝「散氏盤」と「毛公鼎」は、現在、台北の中華民国国立故宮博物院に保存されています。
台湾へ赴き強敵と戦う
1884年、清仏戦争が激しさを増し、フランス軍が台湾を侵攻、情勢が緊迫しました。清朝は劉銘伝を台湾事務督弁大臣に任命し、ただちに福建巡撫(当時は台湾も福建の一部)に任じました。同年5月、劉銘伝は台北に到着し、戦備を整えました。
台湾は東南アジアの安全を左右する海防の要衝でしたが、軍政は整っておらず、軍費や兵器も不足していました。劉銘伝は1万6500人の兵力を再編し、防衛の中心を北部に移し、4千の兵を駐屯させ、砲台を急造し、台北に本陣を設けて厳戒態勢を敷きました。
まもなく、クールベ率いるフランス極東艦隊が8月5日に基隆(キールン)を攻撃しました。劉銘伝は緒戦で勝利を収め、フランス軍に100人以上の死傷者を出させ、中隊長3人を討ち取り、連隊旗2本を奪い取る快挙を挙げました。

1891年、基隆から台北の間が開通し、1893年には新竹まで延長されました。全行程約107キロメートル。これは、中国人が自ら資金を集め、自ら運営し、すべての権利を保持した初めての鉄道でした。これは中国近代交通史における偉大な業績であり、後の台湾鉄道網の基礎となりました。
1891年、劉銘伝は病を理由に引退し、台湾を離れました。
1895年、日清戦争に敗北し、台湾と澎湖が日本に割譲されるという知らせを聞いた劉銘伝は、悲痛のあまり血を吐き、病床に伏しました。そして1896年1月12日、この世を去りました。朝廷は彼に太子少保の位を贈り、「壮粛」という諡号を授けました。
劉銘伝は台湾近代化の礎を築き、若き日の志を果たしました。後世の人々は彼を台湾鉄道の父、台湾近代化の父と尊んでいます。
明清数百年の歴史の中で、台湾に最も多大な貢献をした人物は、鄭成功とこの劉銘伝に指を屈します。台北の228和平公園には彼の銅像が建てられており、台湾を近代化へと導いた先駆者の功績を今に伝えています。