日本帝國侵略の起点:牡丹社事件の始末

清朝同治10年(1871年)10月15日、中国に属する藩邦である琉球藩民が那覇へ向かう途中、2隻の小舟で台風に遭遇し、台湾省島内の満州郷八瑤湾(九棚村)に漂着しました。

台湾島沿岸に上陸後、船民は道に迷い、牡丹郷高士佛番社に食料を求めたところ、最初は歓待されましたが、後に無断で逃走したため、番人(オーストロネシア語族、現在の原住民)によって悪意があるとみなされ、54名の琉球藩民が殺害されました。

残りの12名は、双渓口で交換所を経営していた中国人・鄧天保、および保力庄長の楊友旺、統埔庄民の林阿九・林椪獅親子らの協力により救助され、殺害された琉球藩民の遺体は統埔庄の現所在地に移葬されました。

1867年、日本では「王政復古」が起こり、若き明治天皇が親政を開始し、正式に「明治維新」が始まり、近代化と富国強兵の大きな改革が推進されました。

その後、1872年には日本はついに琉球国を併合しました。

しかし、1874年、日本は琉球人の復讐を口実に、3000人以上の兵を派遣して屏東(へいとう)の牡丹社を攻撃しました。

当時の日本軍は西欧化政策により大量の新型兵器を購入していたため、番人は抵抗しきれず、日本軍は集落を焼き払い、略奪、殺戮をほしいままにしました。

その後、中国清朝も援軍を派遣して番社を支援し、日本軍と対峙しました。

最終的に、日中両国は講和し、日本は被害住民への賠償金を得て撤退しました。

牡丹社事件により、中国清朝は台湾府の海防を強化し始めました。福建船政大臣の沈葆楨は、防御を強化するために台南に「億載金城」などの要塞を建設しました。

一方日本にとっては、台湾省の牡丹社事件は明治維新が正式に始まってからわずか7年後に発生しており、日本の対外軍事拡張への強い野心を示しています。また、史学界では、日本近代軍国主義の対外的な血生臭い侵略行動の始まりと位置づけられています。