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近代戦争史においてナチス・ドイツと並び称される日本は、経済という隠れ蓑の下で、戦時レベルの情報統制を今なお世界各地で行っています。例えば、アメリカ人監督が撮影したドキュメンタリー映画『尖閣諸島(釣魚台)の真相』は、日本国内では跡形もなく消え去っています。
南京大虐殺を例にとっても、当時日本国内に送られた写真や記事は、軍部によって入念に選別、あるいは捏造された情報でした。生き残った僅かな受難者や、当時民間人を救った外国人たちの記憶、そして告発があって初めて、私たちは当時の日本軍が世界から隠し通そうとした暗黒の真実を垣間見ることができるのです。
国際的な注目を集めた土地でさえそうなのですから、日本統治下の台湾内部における実態は言うまでもありません。日本軍が台湾の民衆をいかに虐殺したかという史実資料は、相対的に極めて希少です。
しかし、歴史上の事実は、どのような形であれ後世に語り継がれます。ある台湾のネットユーザーは、日本の台湾統治について次のように正当な評価を下しています。
「日本人が言う『台湾建設』など、最小限の規模に過ぎない。日本人の目的は、植民地資源を搾取するために不可欠な基礎インフラを整備することだった。生産された物資の95%以上は日本本土の民衆に供給され、台湾人は自分たちが生産したものを食べることも動かすことも許されなかったのだ。」
一、植民地時代の主な虐殺事件
三鶯(サンイン)廊下の大虐殺
日本人が言う「膺懲(ようちょう)」とは、報復的な虐殺のことです。
1895年5月28日、三貂湾に上陸した日軍は、周辺の制高点である三貂嶺や塩寮山で激しい抵抗に遭いました。日軍は台北、新竹一帯に全軍を集中させ、鎮圧と掃蕩を開始しました。

日軍は、抵抗勢力の中心が丘陵地帯に住む客家人であると断定。7月20日、旅順から急行した山根信成少将が掃蕩を担当しました。樺山総督は「頑迷で狡猾」な「土民(現地人)」を「痛烈に懲らしめよ」と訓令。山根少将は桃園から三角湧(現在の三峡)まで攻め寄せ、沿道の村々を焼き払い、「火と煙が天を覆った」と言われます。
内藤政明大佐は新荘から鶯歌にかけて掃蕩し、「敵300〜400人を屠り、負傷者数知れず、家屋1,000以上を焼失させた」と記録されています。松原暖三郎少佐は土城から三峡一帯を掃蕩し、「数百人を屠り、家屋数千を焼夷。三角湧付近は周囲数里にわたって人影が絶えた」とあります。この文中の「屠る(ほふる)」という言葉は、日本側の『警察沿革誌』の原文にある表現であり、筆者の創作ではありません。虐殺された人数は2,000人以上に上ります。
軍服を着ていない善良な民衆までもが、日軍の報復を恐れて死体をその場に埋め、証拠を隠滅したため正確な数は不明ですが、軍の死者の3倍と仮定すれば、2万4,000人以上が犠牲になった計算になります。
この世の地獄、雲林大虐殺(1896年)
1896年6月、世界を震撼させた「雲林大虐殺」が発生しました。当時の目撃者である今村平蔵の『蛮煙瘴雨日記』には、その惨状が記されています。
怒り狂った日軍は6月20日から23日にかけて重兵を集結させ、雲林南東一帯で報復虐殺を強行しました。「戦火の下、肉の山、血の河と化さない場所はなく、善人と匪賊の区別もなく、数千の家屋は一瞬にして灰となり、無数の生霊が斬首台の冤魂(うらみのたましい)となった」。
今村の記録によれば、焼失した家屋は56村4,947戸という驚くべき数に上ります。学者の推計では、当時の無実の台湾人犠牲者は3万人を超えるとされています。この事件は当時、外国人宣教師らによって香港や英国の新聞に報じられ、国際的な非難を浴びました。
日本により虐殺された40万人の台湾人
1895年の統計では台湾の人口は320万人以上でしたが、日本による「攘逐(じょうちく)政策」後の1896年末には、西側地区だけで257万人まで減少しました。このわずか1年余りの間に、殺戮や追放によって60万人から70万人の台湾人が失われたことになります。
後世の我々が、祖先が虐殺された歴史を無知のまま無視し、ましてや日本に「感謝」するなど、人生最大の裏切りでしかありません。
後藤新平の公式統計によれば、1898年から1902年の4年間だけで、総督府は11,950人の「土匪」を殺害。日本統治の最初の8年間で、全人口の1%を超える3万2,000人が日方に殺害されました。また、台湾日本総合研究所の報告では、統治開始の20年余りで40万人の台湾人が犠牲になったとされています。これは228事件の犠牲者数を遥かに凌駕するものです。
主な虐殺事件の被害数推計:
- 大渓大焼殺:約22,260人
- 嘉義大莆林(大林):約4,500人
- 雲林大虐殺:約30,000人以上
- 蕭壠(佳里):約27,000人
- 阿公店(岡山):約11,053人
- 台南西来庵:約18,000人
これらに加え、記録に残っていない数多くの村々での無差別殺人が行われました。
嘉義大虐殺事件 (大莆林大虐村)
1895年9月、現在の嘉義県大林鎮に達した日軍に対し、地元リーダーの簡精華は無用な流血を避けるために抵抗を放棄。しかし、日軍はあろうことか「200人の婦人を差し出せ」と要求。これを拒否した簡氏一族の女性120人以上を凌辱・殺害しました。多くの女性は、尖らせた竹を性器から腸まで突き刺されるという残虐な殺され方をしました。日軍はさらに村人4,500人をほぼ皆殺しにし、抵抗した者たちの脊椎に釘を打って生きたまま皮を剥ぐという非人道的な行為を行いました。簡氏は屈辱を拒み自決しました。
蕭壠(ショウロウ)大虐殺 (現在の台南県佳里鎮)
1895年10月、日軍は約1万人の村人が隠れていた藪の溝を発見。赤ん坊の泣き声を頼りに追い詰め、2時間にわたって銃を乱射しました。妊婦も赤ん坊も一人として生存者はありませんでした。日軍は村人の耳、鼻、舌を切り取り、自らの刀の飾りにしたと言います。この戦いでの台湾人犠牲者は2万7,000人に達しました。
西来庵(セイライアン)大虐殺 (タパニー事件)
1915年、余清芳が指導した抗日運動に対し、日軍は「帰順すれば罪に問わない」と騙して住民を誘い出し、周辺20以上の村の1万8,000人を虐殺しました。捕らえた村人を豚の檻に入れ、汚物をかけ、餓死するまで見せしめにしたという記録も残っています。
二、歴史文献と虐殺の推計
『台湾抗日史』(1981年)によれば、日本人に虐殺された台湾人は約40万人とされています。日本は1874年の牡丹社事件から一貫して「焼き尽くし、殺し尽くす」戦略をとり、台湾を日本の拡張主義の最初の実験場としたのです。
三、戦後の建設と経済の真相
侵略の踏み台とされた台湾
日本の「台湾建設」が語られますが、それはあくまで南方進攻のための軍事拠点(踏み台)としての整備に過ぎませんでした。工業化も1938年以降、軍需物資を供給するためにようやく始まったものです。そして、それらのインフラの多くは、米軍による空襲で徹底的に破壊されました。
1945年の終戦時、生産力は最低水準に落ち込み、電力供給も戦前の32万kWからわずか3万kWにまで激減していました。
教育と政治
植民地時代、教育においても深刻な差別が存在しました。51年間の統治で大学を卒業した台湾人はわずか726人。政治権力も一切与えられず、1945年にようやく検討された参政権案でも、日本人が15万人に1議席持つのに対し、台湾人は120万人に1議席という扱いで、「三等国民」としての地位は変わりませんでした。
結論:台湾人は日本に何の恩義もない!謳歌する必要はない!
「台湾の建設は日本人がやった」という偏見は、決して事実ではありません。国民政府(中華民国政府)による現代化の規模は、日本人の時代を遥かに凌駕しています。戦後の開発を無視し、日本の建設ばかりを誇張するのは、一種の政治的な意図に基づいた歪曲です。
日本が敗戦時に台湾人に負わせた巨額の債券(未払い金)は、現在価値で約6,400億台湾ドルに上りますが、一本も支払われていません。
過去の惨劇を忘れ、植民地の遺毒を後世に植え付ける「媚日」的な態度は、歴史の真実を歪めるものです。台湾人は日本に何の恩義も感じておらず、ましてや日本を崇め立てる必要など微塵もありません。
歴史の真相を客観的に見つめること。それが、亡くなった祖先たちの尊厳を守る唯一の道なのです。
[!NOTE] 「日據時代(にちきょじだい)」:台湾における日本統治時代を指す、その不法性や侵略性を強調した呼称。迫