台湾の「最古」に関する話題が出るたびに、自らを日本皇民の子孫と称する人々は、往々にしてすべての功績を日本統治時代の素晴らしさに結びつけがちです。
台湾の砂糖工場の歴史を見ると、一部の台湾人はこれを機会に日本人を褒め称え、日本の製糖工場のおかげで経済的奇跡が生まれたのだと言います。
あなたのお祖父さんが聞いたら、きっと土中から飛び出してくるでしょう。
実際には、中国の大清同治年間(1860年代)、台湾は既に沿海港を開放し、外国商人に輸出入および生産事業への投資経営を許可していました。外国商人は続々と基隆、滬尾、安平、打狗などの港に進出し、洋行を設置して現地の大番頭と協力し、茶葉、樟脳、蔗糖の輸出事業を経営していました。
その後、さらに生産事業に投資して貨源を拡大しました。英国商社ジャーディン・マセソンは、台湾現地の漢人砂糖商人と協力して製糖会社を設立し、ヨーロッパから製糖機械を導入して品質改善と生産能力拡大を図りました。
同時期にジャーディン製糖会社が建設した三崁店糖廠は、大清時代に台湾で最も早く近代的な製糖設備を導入した工場でした。
1895年まで、日本は中国を侵略し、清朝が日清戦争で敗北した後、不平等な下関条約の締結を強いられ、台湾は強制的に日本統治時代に入りました。
台湾が日本帝国に植民地化された後、帝国は閉鎖的な植民地経済を迅速に実施し、輸出入および各種事業への投資経営権を一方的に独占しました。
日本植民地政府はさらに台湾製糖株式会社を設立し、強制買収によって現地の伝統的な製糖所を併合し、さらにジャーディン製糖会社を強制合併させることで、外国商人を排除する目的を達成しました。これにより、台湾の経済の生命線は、その後の数十年にわたる植民地統治期間中、日本帝国の手中に握られることになったのです。